昭和四十六年七月四日 朝の御理解


X御神訓「天が下に他人ということはなきものぞ」


 教祖様はそのように教えておられます。「天が下に他人ということはなきものぞ」と言う事は、親戚同志だという事になりますね。これは黒いとか白いとか黄いとかと所謂人種差別とかと致します。日本でも士農工商というような、そういう差別的な扱いや見方をしたものでございますけど、教祖様は皆他人というものはない親戚同志だと教えておられる。という事は、そういう頂き方そういう見方をさせて頂けれる心を教祖様は求めておられる。そういう心を求めておられる。勿論ですから御教えですから、その御教えをあっそうだとわからせて頂いて仲ようするというかね、本当に親戚同志のように親密にお付き合いをするというか、そういう心の状態がそのまま神の気感に適いおかげを受けると言うところに教祖の御教えがあるのです。 
 ただそういう事を世に発表したという事ではなくて、もう直におかげに繋がるという事です。あれは北一輝という人でしたかね。世界は一つといったような事を言い出した人がありましたですね。あれは確か明治時代だったでしょうか。北一輝とか言いましたですね確か。又福沢諭吉なんかでもやはりそうでしたね。天は人の上に人を作らずと言って、所謂平等だと言う意味です。ですからそういう思想ですね。教祖様は思想家ではないですから。純信心から純心な信仰からそういうのが生れてきたのですから、教祖様の場合は例えば同じ様であってもですね、北一輝の世界は一つといった様な見方、福沢諭吉の天は人の上に人を作らずと人間はみんな平等だといったような思想家ではないのです。教祖様はどこまでも宗教であります。だから宗教家の見た、いわゆる人間観と申しましょうか、所謂教祖様は神の氏子と見給うたのである。天地の親神様の氏子として見られた。ですから皆同胞であり、所謂うからやからである。兄弟同志であると言う風に見られたと言うより、そういう風に頂かれたわけです。ですからそういう頂き方が出来るという事は即そのままおかげに繋がる事なんです。
 ここんところを一つ頂き違わんようにしませんと、只福沢諭吉が言う事やら北一輝が言っている事と同じ様なことになりますよね。素晴らしい事を言い出したものですね。「天は人の上に人を作らず」人間皆平等だと、だから差別扱いはいけないと。社会は一家のようなものでなければいけないと北一輝は説いたのですね。成程教祖様も同じ様なことを「天が下に他人ということはなきものぞ」と、けど教祖のは純信心から生れた。信仰から生れた。人は皆神の氏子としての見方からそういう見方をなさることになり、仲良うするということ。これは他人同志なら仲が悪かってもよいけれども、内々ではやっぱり仲良うせにゃいけんと言う。他人ということはなきものぞ、と言うことはそういうこと。それをもっと高めて申しますと、人間は持ちつ持たれつ拝み合うて行くんだというところまで高められて行くわけであります。ですから拝み合えるという事そのものがね、教祖の御心であり、教祖はそこを仰りたいのだったと思うのです。そこでどうしても相手が拝めるために自分自身がやはり拝めれる。自分自身が拝めれる私でなければならないかと言うことになって参りますですね。
 教祖様の場合なんか、例えば福沢諭吉が言っておる所謂天は人の上に人を作らない平等などというような事を言ってますね。まあ共産主義なんかの思想もやっぱりそうですね。やはり財産なら財産でも人間同じだから平等にしてしまえと言うこと。だからそんな事ではない。いつでしたか、誰かが貧乏人は麦を食えと言うて問題になった事がある。私は問題になってはならない本当だと思うですね。貧乏人が米の飯を食おうとするところに問題が起るんですね。やはり例えば立身出世をしてお金が出来ていく地位が出来ていく、立派な着物を着て立派なものを食べるというのは当たり前のこと。仕事はせん無精者で、そしてうまかものは食べたい。そういう考え方が間違っていると思うですね。貧乏人はやはり麦を食うのが当たり前、そして米の食えるようなおかげになって行かねばならんのです。教祖の場合なんかそういう事は仰っておられんけど、まあ私が思うのに私はいつもそこんところを差別即平等だといったような事を申します。所謂貧乏人は麦を食えと言うのは、如何にも差別しとる様であるけれども、本当になら神様の目から見たらそれは平等なの考え方だと思いますね。
 例えばなら此処でもそうです。労働者の方達にお神酒でも上げなきゃならん時にや、やはり二級酒があれば二級酒しか出しません。かと言うて、又先生方が見えたとするなら必ず特級酒しか出しません。それは私が如何にも差別しとる様であっても平等だと思っとります。いわゆる差別即平等です。どんな人にでも特級酒を出すという考え方は、私は間違いだと思うですね。私はいつも先生方のことを例にとるのですけれども、お酒の時久富先生あんたは焼酎があったよ、あんたは焼酎を頂きなさいと私は言う。秋永先生にはあんた頂ききらんけんビールを頂きなさい。如何にも私が秋永先生と久富先生を差別しておるようですけども、実を言うたら神愛から出て来とるものなのです。神心から言うておるのです。だから差別即平等だということになります。問題はそうしてですね、焼酎を上げてもビールを上げても本当にその人その人を拝んでいけれるということなのです。人を大切にするということは、良いものを上げる事が大切にすることじゃないということ。私は貧乏人は麦を食えという政治家があったと成程私はそれがどういう意味かわかりません。どういう時にそういうようなま失言という事でしょうが、でしたか知らんがよくよく考えるとそれは本当のことだと思います。貧乏人自身が、いや私どもは麦で良いと言うべきだと思います。そして必ずしも麦に定着してしまうことではありません。段々おかげを頂いて、米の飯が頂けるようになったと言うおかげを頂いていかにゃならんのです。
 純信仰からの見方はです今、天が下に他人はなきものぞと言うのはどこまでも純信仰から、神の氏子としての御眼方から言わば世界は一家という風な見方をなさったわけです。けれども北一輝が言っている言うならば世界は一つとか、福沢諭吉が言っておる天は人の上に人を作らずと言ったような事とは全然本質的に違うのです。だからそうか違うという事がわからなければね、おかげに繋がらんのですよ。だから教祖様の場合、天が下に他人ということはなきものぞと言うことが、本当に私どもにわからせて頂いて本当に言わば他人事とは思われないという親心が生まれてくる。新芽のものがわいてくる。拝まなければおられない、拝み合うて行くという姿勢が生れてくる。そういう心に天地が共鳴なさるとでも申しましょうかね感応ましますと言うか、そういう心におかげが受けられる。教祖の場合は、だからどんな御教えを頂いてもその御教えが本当に頂けた時に、即おかげにつながるのです。そこが言うならば思想家と宗教家の言葉は如何にも同じ様であっても、相異的がそこにあると思いますね。福沢諭吉は素晴らしい事を言うておりますね。道の教祖様も同じ様な事言うとられる。そういうものでは決してないのです。教祖様の仰ってることは即そのままおかげにつながっていかなければなりません。又つながるのです。それも不思議な不思議なおかげにつながっていくのです。そういう頂き方が出来るとです、お金に不自由しよった人がお金に不自由せん様になり、そういう頂き方が出来る様になると病気しとった人の病気が癒える。そういう頂き方が出来る様になると人間関係が有難い事になって来るのです。本質的にだから違いますね。私は今日は今までは私も福沢諭吉あたりのそれとこれを同じ様な見方してたけれども、今日改めてそこを頂かしてもらいましてね成程教祖様の仰っておられる一言一句というものは、そのままがおかげにつながるお言葉だなと感じます。 
 私は昨夜こんな不思議なことがあった。不思議な事というがいつものことですけど、本当に神様のお働きのやはり素晴らしさというような事をね感じたんですけど、今朝から私起きぬけにそのこと家内と幹三郎と繁雄さんと四人で話した事でした。きのうはの方達が合宿しとりましたからゆうべ遅くまで何かやっとりました。納戸の方もが使っておる。共励殿の方も使っておる。それで繁雄さん今日あなたは、もう御用が終られたら私の部屋で休んで下さいと言うて休んでもらった。ところがこれは自分ではわからんのですよね、いびきをかくような事は自分じゃわからん。ところが繁雄さん非常にいびきが高いのです。それでもってどんこん眠られんくらいいびきかかれる事があるのです。ゆうべも矢張り高いびきをかかれるのですね。その時に私の心の中にもう直感した事なんですけどね、それこそ昼のお疲れに熟睡しておられるので有難いなぁと思うたですね。思う思いを止める前にぴしゃっと半分目で止ったですけね。これには私は本当に驚いてしもうて、いつもの事ながら神様の働きの素晴らしさ凄まじさに驚いてしまいます。今朝まで繁雄さんも熟睡されるなら私もいびきのわざわいを受けることなく休まして頂くことが出来た。私は驚くですね。今まで私がね布団の端をこうして引っ張るのです、そすと止めなさる。そうするとこっちはずーっと待っとかなんと言う感じだったです。ちょいといびきが高い。そりけちゅうてこうこうやって動かすわけにいかんけ、布団の隅の方ばこうこうやって引っ張ると止まるんです。それでちゃんとこっちは今度いびきをかかっしゃる迄眠られんちゅう風に前にも何回も体験もありますんですけど、ところがゆうべ私の心の中に本当に有難い神心であったと言う事なんですね、本当に昼の疲れで熟睡しておられる。本当に熟睡しとられる事が有難かった。もうそれを思い終わる前にそのグーのいびきがその半分でぴしゃっと止まったです。これには私も驚いてしまった。してみると、いろいろ考えさせられてみると天地の親神様の心と私どもの心が合い通じるというのか通うという事がです、有難い。通うということがおかげと通うそのルートを通って、は間髪を入れずおかげを蒙るということなのです。
 成程、神様のおかげが、と言うのは凄まじいことになって参ります。それにどうでしょう。天が下に他人はなきものぞと仰る。そのことがです、本当にそうだなぁと神の氏子としての見方が出来、すべての人を合掌する心が生まれてくる。その合掌するその心、他人ということはなきものぞと言うことは、もう親戚も同じ事と言う。だから親身にその人のことを思えるということ。他人事とは思われないということ。その親切心、親が子を思う切なる心、又は神心。私のゆうべは親切心でなくして、よりかもっともっと高度のものであったと思う。あーまた今夜もこのいびきで休まれんという事でなくして、もうその事が嬉しいその事が有難い。まあよう眠ってると神様がその眠ってる姿をいびきをかいておるとかそんな事は考えてはおられん。よく眠っておる熟睡しておることを喜んでおられる心が私の心に映っておる。そこには即間髪を入れずそのいびきが止まっておるという様なおかげ、してみるとね人間のこの身体というものがです、成程神様が作んなさったんだなあ、この息の差入れも神様のおかげを頂かねば出来ることではないのだなと言うことが段々連想されて参りまして、本当に有難い有難いで眠りのおかげを頂いた。おそらくそういう祈りの中にあるから、繁雄さんも有難い有難い思いの中にお目覚ましのおかげ頂かれたんであろう。もう三時過ぎには起きて布団を上げて、私はおぞうどりましたけども、もう有難い目覚ましのおかげ頂いとった。
 有難い目覚ましのおかげを頂く筈ですよね。そういう祈りの中に私があり、又そういう祈りの中に繁雄さんが休んでおられるのですから、有難い目覚ましのおかげの頂けん筈がない。成程この命というものは、神様がお作りになったものであることがわかる。痛いとか痒いとかはあっという間に治る。神様にお願いして頂いて治るおかげの頂けることは、成程神様がこの体を作って下さったんだなと言うことがわかる。息の差入れに至るまで、神様の御許しを頂かなければ出来ることじゃない事がわかるでしょう。いびきをかく事でも止めることでも神様は実を言うたら自由自在でおありになると言うことなのです。私はそこがわからせて頂くことが有難いと、信心を。ですから、たとえ病気をしておってもそれは病気じゃない。神様の御都合なんだと言うような頂き方こそが、一番正確な頂き方。間違のない生き方頂き方なのです。ですから神様の御都合と言えば、おかげ頂かせたいばっかりの御都合であるから、私どもが本当におかげの頂ける状態を求め求めして行くということ。本気で改まらせて頂くという事、本気で研かして頂くということに焦点を置いていきさえすれば病気は癒えるという事がわかります。不思議なことですよ。信心をどんどんさせて頂いて改まることに研くことにこうして教えを頂いておりますと、段々本当のことがわかってくると、不平不足を言わんで済むようになり反対に有難うなってくる。有難うなってくるその心がその心が、いわゆる赤の他人とは思われんようになってくる。有難い。
 最後の千代田さんですね、ここに参っとられます。ここ一週間余り村中で村中の者が誰も相手にしないという人があるのです。勿論信仰なんかありません。お父さん達両親が避病院で二人とも亡くなられた。子供達は父親の余りの狂乱です。酒乱ですね。お酒を飲んで乱れるわけです。奥さんも亡くなられた。子供さんも娘さんと息子さんと三人、もう娘さんとどこに逃げ散らかしたかわからん、どこにいっとんなさるかわからんという状態。只中学校にいっとる息子と二人暮し。もうそれこそ薪がなければ床の板でも何でもはがして焚物にさっしゃるごたる人。そしてその酒癖が悪うして、その合楽食堂なんかにちょいちょい行かれてもう大変困ると言うてお届けされますが、時々ここへ来ることを覚えましてね時々夜夜中やって来るのです。それでもうぐずってもう事務所の方が最後には送っていく。時々には千代田さんとこに電話かけてそれで千代田さんがわざわざ迎えに来てやんなさる。それは手にも足にもつけられん程しの方。あんた時には親の墓掃除にでも行かんの、嫁さんの今日は立ち日じゃなかのと言うてやんなさるけど、私ば放ったらかして逝った嫁御の墓ばどうして拝むのち言うてもう、いつもお墓掃除やら何やらは、千代田さんが一人でしてやんなさるそうです。もうそういう村中の者が言うなら村中の厄介者と言うたようなその人なんだけれども、先生この頃それが本当に親身に思えてね、あの人のことを神様に願うてやらにゃおられないような気がして参りますと言うて、最近はその方の名前でお初穂を毎日お供えなさってからその方のことを祈っておられます。
 段々段々信心さして頂いていよいよ世の中の屑と村中の者が誰一人として、もう村中だけじゃないこの界隈の人達がです相手にしないという人のことでもです、しかも日々お取次を頂いてお願いをせねばおれないといった様な心が千代田さんの心の中に育ってきている。有難いなあと思うですね。信心とは、所謂天が下に他人ということはなきものぞと言うことを、千代田さんの信心によってその様に映ってきたわけです。千代田さんの信心が、そういう事にならせられてきたわけです。そういう心の状態を教祖様は願っておられるのであり、私どもに求めておいでられる。だからそれはそうだ。天は人の上に人を作るはずがないとわかって、貧乏人でも米食わせろというような意気込みになってくるのではないでしょうが。金持ちだけが贅沢して俺達が不自由するとそういう【】があるものか。天は人の上に人を作らんのだ。それは確かにそうなのだ。けれども、差別即平等である。むしろそこには貧乏人は麦を食べていくことの方が本当である。段々働いておかげ頂いて良いものが着られ良いものを食べていけれる事は、願いとせなければならん。身分不相応なことを相応というかね、大事である。人に扱う。人に対することでも同じことが言える。
 私は昨日そこんところをですね、教祖様の仰ることはそういう思想家の方が言うことと同じ様なことを、例えば本当に御教えを頂きますと世間にある金言と申しますかね諺というか、そげなこととは五十前百前というようなことが沢山あります。又はこれは俳句じゃろうか川柳じゃろうかという様なのもあります。けれどもね、その根本、本質が違う。教祖の御教えの中にはね、もう人を助けねばおかん、人を救わねばおかんという内容があると言うこと。だから私どもその気にならして頂くときに天が下には他人はなきものぞと純粋に精心、信心によってわからせて頂くときに人を大切にする、人を拝ませてもらう。所謂拝み合いの生活の出来るような心の状態が生れてくるときです、病気は癒えるのであり、難儀から解放されるおかげが受けられるのである。今日はそこんところをですね、もう一つわかって頂きたい。教祖の御教えはね有難くわからせて貰う。有難く頂かせて頂くと、即もうおかげにつながっておると言う事。だから教祖の御言葉はです、一言の御言葉でも千金の重みをもって頂かせて頂くことが出来るのである。さあそういうおかげを頂くことが出来るのが私は御教えだと思う。
 ですからそれをそう頂ける心を言わば作っていくと実感していくと言うところに、もう繁雄さんが私の部屋に休まれたのはいつごろだったでしょうか、何ヵ月前だったかも知れませんがその時まではいびきかきなさるとあーまたいびきが始まったと布団をこうして引きよる。ところが昨日の私はもうそうではない。熟睡しておられるという心が育っておる。有難いなあと思うておる。もうそれは神様が御覧になって思われるような心が私の中に頂けておる。それは研くことに改まっていく事に精進させて頂いておるから、自ずとそういう心が育ってくる。千代田さんが初めてここにお参りになった頃は、とてもあんな奴はろくな奴じゃなか。ここに来たなら電話かけて下さい。私がごろごろこう叩いて引っ張って行って下さりよりました。ところがそういう人でも最近千代田さん信心の佳境にいってこられたと申しましょうか、信心が段々わかって来たと申しましょうか。その他人が相手にしない、その赤の他人のことを他人とは思われないという思いで、お取次を頂いてしかも日々お取次頂いてお願いをして行かれると言う。そこに千代田さんの助かりがあると私は思いますですね。どうぞ。